人に対する怒り—自分の支配欲—

前回は、相手に仕掛けられたときに生じる怒りについて私の経験を書きました。簡単にまとめると——
いじめっ子体質・ボス体質の人にくだらない理由で悪い態度を取られたときは、やり返したらいい。根が深くなければ、笑い話にして怒りを解消できることもある。
了見の狭い人と意見が「対立」したときは、時間をかけて自分の考え方・やり方もありだと証明する方法もありうる。
組織に構造的な問題があるなら、そこを離れるのもよし。

これらの構図をもう少し抽象度を上げてまとめると、相手を自分の支配下におく欲望と自由を求める抵抗と表現できるかもしれません。マイナスにされたのをゼロに押し戻す、もしくはマイナスの場から逃げる行動です。

■怒っても相手を思い通りにできるわけではない

ここで私にも反省しなくてはいけない部分が出てきます。私も家族に対しては、自分の思い通りにならないときにひどく腹を立ててしまうことがあるのです。家族を支配下におきたい感情といえるでしょう。私はプライベートでは、健康的で規則的な秩序だった生活を好みます。たとえば、就寝時間。できれば夜は9時半頃に、遅くとも10時には寝たい。でも、家族の他のメンバーは時間なんて気にしません。そして、狭いうちではそれぞれの行動が他の人に影響を与えずにはいられません。

夫が夜型で夜中に物音を立てることに、本気で腹を立てていた時期がありました。でも、夫に腹を立てても、夫の行動は変えられませんでした。夜中に一人で集中して考える時間が持てないと生きていけないんだそうです。日中はうるさいくらいにしゃべっているのに、勝手な話です。(人がいるとそちらに注意が向いてしまい、夜中しか集中できないので、道理ではあります。発達障害があるのでしょう。)環境を変えるしかないと考えて、一人で適当な物件を探して家族で引っ越しました。狭いうちではありますが、夫には個室をあてがいました。振り返ってみると、怒りを経由しなくても、困ったなと感じて、解決策はなんだろうと思案するだけでよかったのではないかという気がします。怒っていると、眠りの妨げになったりして、しんどいですから。

ここまで書いて気づいたのですが、怒りは他の本能を凌駕する強さがありますね。睡眠は身体にとってかなり大事だと思うのですが、それを抑制するわけですから。もしかしたら、動物の命運を分ける局面(捕食者と対峙するとか、オス同士で縄張り争いをするとか)で発揮される反応から進化してきた感情なんでしょうか? でも、体格も含めた身体能力ですぐに決着がつく動物とは違って、人間の日常生活のいざこざは身体接触なしの頭脳戦で決着まで時間がかかることも多いですし、身体の健康のためにも怒りに飲み込まれたくないですね。

さて、話を戻して、いくつもの経験を重ねて、夫の行動は変えられないことが身に沁みています。しかも、私が怒りを伝えても、夫はひどく不機嫌になるだけで、自分の考えを口に出さないことが多いので、こちらとしては何も得るものがありません。いまでも内心腹が立つことはありますが、怒りを言葉に出して伝えるより、私の行動や環境づくりで妥協点に到達する方法を考えるようにしています。

怒りをはっきりと外に出してしまうのは、子どもたちに対してです。だらだらと宿題をしていたり、もう寝る準備を始める時間なのにお菓子を食べるのを忘れてたと言い出したりすると、本気で怒ってしまいます。そのときは、怖がって言うことを聞きます。でも、その後も続く効果はないんですよ。ちゃんと早めに寝る準備ができたときには褒めますし、子どもも褒められて嬉しそうにしますが、それにも持続的な効果はありません。よく、子どもは褒めて伸ばすといいますが、うちの子たちには通用しません。ちょっとアホなのか、年齢のせいなのか、時間の感覚が希薄なんでしょう。

自分の行動を振り返って、これからどうしようかと考えると、私が夜寝るのを妨げられるのはやっぱり嫌だし、ちゃんと寝ないと子どもは十分に成長できないだろうし、早く寝るように声をかけ続けるしかないなと思います。ただし、子どもの能力を考えて、毎日言われているのになどとは思わないように心がけます。そうすれば、私の怒りも小さくなるんじゃないかな。

■常識の無神経さと私の偏狭さ

最後に、いままでの怒りの話とは毛色が違いますが、私が「違う!」と大きな声で言いたくなるパターンの話をします。私はパンは硬いものが好きです。できれば、ずっしり重いやつがいい。子どもの頃から、食パンの白いところは嫌いでした。ふわふわしていて噛みごたえがなくて食べた気がしません。でも、日本のパンは食パンに限らず、ふわふわのパンが主流です。ところが、それが多くの人たちがふわふわのパンが好きだからとは気づいていませんでした。ふわふわにすると、材料の重量に対して体積(見た目)が大きくなって、コスト削減になるのだろうかなどと考えていました。数年前に知人が「ふわふわで柔らかくて美味しい」とパンを評価するのを聞いて、びっくりしました。そして、やっと気づきました。ふわふわは高く評価されるんだと。その後、夫の実家に遊びに行った時、義母が子どもに「ふわふわだよ」と食パンを出してくれました。食パンの袋には耳までやわらかいというようなことが書いてありました。子どもに美味しいものを食べさせてあげたいという義母のやさしい心遣いはわかるのに、義母にはまったく非もないのに、私は私はふわふわのパンは嫌いだと叫びたくなりました。

私には他にも多数派の好みと違う嗜好を持っている領域があります。多数派の好みはいわば常識ですから、多数派の人たちはほとんど何の疑いもなく、その常識が相手と共有されていることを前提として(たぶんそんな前提をおいていることにすら気づかず)話をすることがあります。そんなときに私は大人気もなく、私はそれは好きじゃないと言ってしまうことがあります。違う好みを持つ人もいるんだとわかってほしいのです。承認欲求の一種でしょうか。

私は偏狭だなと反省する気持ちと、でも黙っていたら常識が強化されて私の好きなものがさらに減るかもしれないしなという気持ちがせめぎあいます。好きだと口で言うだけでなく、それを買ったり、それを食べたりという行動を繰り返すほうが大切だと思えば、状況に応じたコミュニケーションが取りやすくなるかもしれないなと思ったりします。