前回は、「スーパー・コンピューターの父」として知られるシーモア・クレイの生い立ちと、元同僚が設立したCDC(Control Data Corporation)という会社に移籍したところまでを紹介した。
■CDCの設立とクレイの参加
CDCは、レミントン・ランドに一旦吸収されたグループが、親会社の上層部にうんざりして1957年に独立したものである。そのため、設立当初は売るべきコンピューターもなく、当初の運転資金集めは、近所に住む人々に株を持ってもらったりというようなドタバタでスタートした。それでも、シーモア・クレイを中心とする開発チームは、レミントン・ランド時代に設計したUnivac 1103というコンピューターを参考にして、真空管の代わりにトランジスターを演算素子として使うものを作ることにした。その際には、コストを切り詰めるべく品質検査に落ちた安売りのトランジスターを集めるような努力もして、1959年にコンピューターの製品化にこぎつけた。そのコンピューターには、旧製品のモデル番号1103にCDCの住所である街路番号の501を足して1604という数字を作り出し、CDC 1604という名前がつけられた。筆者は以前から初期のコンピューターに義務であるかのようにつけられていた4桁や3桁のモデル番号の由来に興味を持っていたのだが、実際のところは、1604のように「いい加減」なものも多かったとは思われる。
CDC 1604はヒット商品となり、CDCは会社として急成長していくこととなる。クレイは1604を成功に導いたことで、次に作るコンピューター設計に関する自由を勝ち得たかにも見えた。クレイ本人は科学技術計算用に世界最速のコンピューターを作るという方向を主張したのだが、CDC上層部は会社を安定させるために、ビジネス用に使い勝手の良いコンピューターを指向していた。現代ではCPUそのものは一般性が高いものであると考えがちだが、当時は限られた論理素子を使ってコンピューターの「命令セット」を実装する必要があったため、例えば文字列を処理するための命令を追加すると、その分数値計算の能力を犠牲にする必要が出てくる、と言うようなバランスをとる必要があった。クレイは当初は会社の意向に従ってCDC 3600と名付けられたCDCの次世代コンピューターの設計に携わった。ただ、彼は「見通しが立った時点でさっさと次の仕事を手がけたくなる」タイプの技術者であり、CDC 3600開発の最終段階は他の技術者たちが行い商品化されたそうである。クレイは「今度こそ世界最速のコンピューターを作る」ということで、CDC 6600と名付けられたシリーズの設計に取り掛かった。
■チペワ・フォールズへの移転
クレイは圧倒的な集中力をもって仕事をする人で、一人で部屋にこもっての設計作業が必須だと思っていた。ただ、1604と3600の成功によって急速に大きな企業に成長したCDCの上層部は、取引先からの訪問者があるたびにクレイを紹介しようとしたり、クレイが行った部品の発注に意見をしようとしたりと、クレイが望む「集中できる環境」が失われていった。そのため、クレイは自分のチームだけを、ミネソタ州セント・ポールにあった本社から車で移動可能だが十分に時間がかかる別の場所に移し、集中して開発できるようにと考え、生まれ故郷のチペワ・フォールズに1962年にCDCの研究部門を設立した。こちらも、CDCに移籍した時と同様に、「場所を移すことにしたので、よろしく」というような事後承諾的なやりとりの結果だったようである。
CDC 6600はそのような経緯で1964年に完成した。この時点でそれまで世界最高速だったIBM Stretch(第31回で触れたフレッド・ブルックスも参加したプロジェクト)の3倍の速度を叩き出した。アメリカの国立研究所ではスーパー・コンピューターを使ってさまざまな研究や核爆弾のシミュレーションなどをする需要があり、また研究所同士で「どこが最速のコンピューターを持っているのか」というライバル関係もあり、CDC 6600は市場規模は小さいながらもその中で圧倒的な人気をえたのである。

■アラン・ケイとCDC 6600
ちなみにアラン・ケイはアメリカ国立気象局で1960年代に働いていたことがあるが、CDC 3600からCDC 6600に移行する時期だったそうである。CDC 6600は実機がなかなか届かないので、アランはCDC 3600上にCDC 6600のエミュレーターを書いて待っていた、と言っていた。アランはチペワ・フォールズにも行ったことがあるが、人口1万人程度の街ながら、しばしばごく普通の家屋ながらベランダなどで地ビールを振る舞う「バー」があり、その数が千軒くらいはある、という地域だったそうだ。
次回は現在のチャットAIの源流であるELIZAと、その作成者であるジョセフ・ワイゼンバウムについて紹介する。
次回掲載予定は2026年1月上旬頃
著者:大島芳樹
東京工業大学情報科学科卒、同大学数理・計算科学専攻博士。Walt Disney Imagineering R&D、Twin Sun社、Viewpoints Research Instituteなどを経て、現在はCroquet Corporationで活躍中。アラン・ケイ博士と20年以上に渡ってともに研究・開発を行い、教育システムをはじめとして対話的なアプリケーションを生み出してきた。2021年9月に株式会社京都テキストラボのアドバイザーに就任。2022年8月より静岡大学客員教授。
