コンピューティング史見聞録(31)
フレッド・ブルックスと「人月の神話」

このエッセイシリーズで取り扱う時期も1960年代の半ばに差し掛かってきた。そのころになると研究だけではなく商用のコンピューター開発においても経験が蓄積されてきていた。そのような時期に世界最大のコンピューター会社IBMで進んでいたプロジェクトのリーダーであった、フレッド・ブルックスについて紹介しよう。

■ブルックスの生い立ちとIBMに入社するまで

フレッド・ブルックスは1931年にアメリカ南部のノース・カロライナ州で生まれた。1956年にハーバード大学でハワード・エイケンの指導のもと博士号を取得し、すぐにIBMに入社した。IBMではまずはStretchという高速科学計算用のコンピューター開発に参加した。その後、ブルックスはSystem/360という「ビジネスや科学計算などの全方位」をカバーするためのコンピューターと、そのOSであるOS/360開発の責任者となった。

System/360の開発は1961年に始まった。ここで興味深いのは、1961年の時点で、ブルックス本人も含め開発に参加した多くの技術者にとって、System/360が「2つ目の大規模システム」であったことである。System/360とOS/360の開発は難航し、トータルで1000人規模の人員が投入され、5年ほどかけて1966年にリリースされた。

■System/360の開発と「2つ目のシステム」

2つ目のシステム」とは、技術者が陥りがちな問題点に関連した用語である。技術者が何かを初めて設計・作成する時は、何が問題点となりうるのかも把握しておらず、どのような機能が役に立つのかに関しても経験がないので、とにかくまずは動くようにと、可能なことに注力して作業をする。ただ、その作業を行う中でいろいろな学びがあり、「次に同じようなものを作る時は、こんなふうにしたい」という欲が出てきてしまう。その結果、「2つ目のシステムを作ろう」となったときに、その設計にあれもこれもと詰め込んで、設計が複雑になりすぎてしまうことがある。ブルックスはOS/360が「2つ目のシステム症候群」にかかったしまっていたと述べている。つまり、1960年半ばにはそのような問題が出てくるところまで業界が成長していたということだ。

ブルックスは、このOS開発の経験を踏まえて、1975年に「人月の神話」という本を著した。この本は数十年に渡り、ソフトウェア・プロジェクトのみならず、プロジェクト運営一般においてバイブル的な扱いをされる本となった。「人月の神話」というタイトルはソフトウェア開発において「人数かける時間」で工数を概算できるという発想が神話である、ということである。

人数が増えると連絡を取ったり考え方の擦り合わせをしたりすることに手間取り、非線形的に進捗が遅くなってしまう、というのが主眼である。OS/360の場合は1000人で5年かかったが、例えばチームを本質的な仕事をするごく少数(例えば7人)に絞れば、より高品質なものを10年で作りうるという概算もできる。ただ、大企業の活動としては、1000人かけて苦労しながらでも5年でリリースした方が、より良いものを10年後にリリースするよりも重要である、というような議論をしている。

「人月の神話」では、軽妙な譬え話を交えつつ、ソフトウェア工学の研究成果を多く引用してこのような論点を説明しており、今読んでも参考になる本である。筆者が期待しているのは、AIがソフトウェア開発に浸透してきている2025年以降の情報を踏まえ、「人月の神話」のように実際のプロジェクトに基づいたソフトウェア・エンジニアリング研究の成果をまとめ、大規模ソフトウェア開発の現状をまとめた書籍を近い将来に誰かが書いてくれることである。

フレッド・ブルックス
(Computer History Museum)

■大学人として

ブルックスは1964年にノース・カロライナ大学で計算機科学部を創設して学部長となった。研究も活発に続け、主にバーチャル・リアリティーシステム研究のグループを主導した。1999年度にはチューリング賞を受賞した。

筆者は共同創業した会社で、3Dグラフィックスを使ったアプリケーション・フレームワークの開発をしていたことがあるのだが、初期からの同僚には、フレッド・ブルックスの研究室を修了した人もいた。その様子からも、学生の育成や技術者との交流にも力を注いだ人であったと言えるだろう。

次回掲載予定は2025年10月上旬頃

著者:大島芳樹
東京工業大学情報科学科卒、同大学数理・計算科学専攻博士。Walt Disney Imagineering R&D、Twin Sun社、Viewpoints Research Instituteなどを経て、現在はCroquet Corporationで活躍中。アラン・ケイ博士と20年以上に渡ってともに研究・開発を行い、教育システムをはじめとして対話的なアプリケーションを生み出してきた。2021年9月に株式会社京都テキストラボのアドバイザーに就任。2022年8月より静岡大学客員教授。