価値観を維持するために

少し間が空いてしまいましたが、文化人類学の投稿第4回です。私は大阪出身で、京都在住です。もう京都に住んでいる年月のほうが長くなり京都にも慣れましたが、京都にきた当初は文化の違いにびっくりしました。隣同士なのにこれだけ違うのかと。どうすれば京都人と(大阪出身の私の感覚で)まっとうなコミュニケーションが成り立つのか、何年間もさっぱりわかりませんでした。

というような異文化体験をこれまで何回か体験してきましたが、そういう文化を全部一つの側のカテゴリーに入れてしまってもいいくらい異質な文化を体験できたのが私の調査地でした。もちろん、ある特定の側面においてという意味です。奇妙な人たちということでは全くありません。

なにもストックしておけない!

調査地で暮らし始めてしばらくすると、村の人たちが私の存在に慣れてきました。すると、なんだか大変なことになってきました。たとえば、夕方になるとしょっちゅう村の人たちが私がその頃居候していた小学校の先生の家にきて、灯油を分けてくれと言うのです。小学校の先生の家には過去のプロジェクトで支給されたソーラーパネルがあって夜は薄暗いながらも蛍光灯を灯せるのですが、ほとんどの家ではもう壊れてしまったか初めからないかで電気がありません。缶詰のミロの空き容器からつくった灯油ランプを使うのが一般的でした。でも、その灯油を切らしているんですね。

その調査地で長期滞在を始めるまでもカリマンタン(ボルネオ)の他の村々を訪問したことはありましたが、これはついぞなかった経験です。調査で必要な物品や当面の生活必需品を揃えて調査にいくわけですが、カメラやなんかを羨ましがられるのは不思議がなくとも、そのあたりですぐ手に入る日用品をねだられるのはどういうことなのでしょうか? 灯油、石鹸、現地の人おすすめのオイル(虫除けやらマッサージやらに使える)……。ちなみに、飴などのお菓子類は少し人にあげると、子どもたちがすごい勢いでやってきて、一瞬でなくなってしまいました。

分けられるものは分けますが、昼間に石鹸やらオイルやらがほしいとやってくる女性たちの話を聞いて、日が暮れると容器を持って灯油をもらいにくる男性たちのために夕食を中断して、というのはなかなか疲れます。試行錯誤で自分なりのルールをつくることにしました。

無くても生活できるものは、ときどきたくさん買ってきて、ばばっと配って「もう無い」状態にしてしまいました。ただ、失敗もあって、オイルを配ったと思ったら、私はもらっていないという人が後から来たこともありました。石鹸類はほとんど使いませんでした。髪を洗うのも、服を洗うのも川の水だけという生活を何か月も続けるとなにが起こるかの実験ができましたよ。髪はすごく健康になりますが、服はボロボロになります!

調査の必需品は「これが無いと調査ができない」と説明して死守しました。調査資料の保存のための古新聞ですら若者たちにとっては写真がポスター替わりになるので、油断できません。本当は少しくらいあげてもいいのですが、一人に気前よくあげるとみんながもらいきますから。

医療品はいろいろ揃えておいて、怪我などには毎回対応するようにしました。あまり害がなさそうなアセトアミノフェンはとくにたくさん用意しておいて、頭が痛い、歯が痛いという人たち(のお使いでくる人たち)に気前よく分けました。

お返しとは違う

この経験をしながら、私がもっとも困惑したのは、私とそれほど親しいわけではない人たちも何かをもらいにくるということでした。

私たちはお世話になった人にお礼をしようとします。ときには、「ありがとう」という感謝の気持ちを伝えるだけでもいいのです。それが私たちにとっての礼儀です。なにもお礼ができないと落ち着かない気分になることすらあります。でも、裏を返せば、お世話になっていない人には何もあげなくていいのです。知らない人でも困っていたら助けるのが親切だという価値観はあります。でも、近所中の人の持ち物がみんな同じレベルになるまで、ものが分配されることはあるでしょうか?

つまり、付き合いの濃淡と、ものの無償でのやり取りの濃淡を一致させられないのです。実はこれは経験則として知られている熱帯の狩猟採集民の特徴です。助け合いの一種には違いないのですが、釣り合いが考慮されていません。狩猟採集生活をしていたグループが数十年くらい前から徐々に農耕民の村に定住するようになり、その後自分たちの集落をつくったのが調査地でした。農業もするようにはなっていたのですが、狩猟採集をしていた頃の文化を色濃く残しているのですね。アフリカで狩猟採集民の調査をしている人たちと話していると、同じ東南アジアで農耕民の調査をしている人たちとより、「そうそう!」となることがよくあります。なにか理由があるのでしょうか?

狩猟採集と移動

熱帯地域の狩猟採集生活の特徴の一つは、澱粉源となる植物は比較的安定して採集できているということです。植物は種類ごとにどんな場所を好むかが決まっています。だから、そういう場所を探せば見つかりやすい。しかも、いったん見つければ植物は移動しないので、収穫できそうな時期にそこに戻れば採集できます。熱帯での狩猟採集を中心とした生活のことをよく移動生活とも呼ぶのですが、それは澱粉源のある場所を求めて移動しているからです。頻繁に移動するので、ものを多く蓄えることはできません。

植物の採集と違って、蛋白源となる動物の狩猟は成功するとは限りません。だからこそ肉が貴重なものになるし、みんなが肉を待ち望みます。おそらく、栄養学的にも肉を食べることは重要です。米や小麦と違って、熱帯で主食とされる野生植物は蛋白質に乏しいものが多いようです。個人や小さな狩猟集団では何日も猟の空振りが続いても、グループ内で獲物の肉を分け合っていれば肉の供給がそれなりに安定します。

頻繁な移動のためにものを多く所持できない、分かち合いで食料の供給が安定するとなれば、分配は合理的な行動といえそうです。肉以外のものまで分配する必要がどこまであるかはちょっとわからないのですが。とにかく、熱帯の狩猟採集生活においては、分配が徹底していることは食料の安定につながります。同時に財産を築くことを不可能にします。では、徹底して分配するのは人間本来の在り方なのでしょうか? それとも、文化なのでしょうか? 「人間本来の」は曖昧な表現ですが、ここでは遺伝的という意味で捉えてみます。

行動規範を教える

遺伝的に決まっている行動は文化とはいいません。用を足すのは文化とはいわない。文化は社会の中で教えられたり、他の人の行動に影響されたりしてするようになるものです。トイレで用を足すときにトイレットペーパーを使うのは文化。

「徹底的な分配」と「財産を築くこと」は両立しませんが、それぞれ熱帯の狩猟採集社会と私たちの日本社会を含む多くの社会で多くの人に共有されている行動原理です。両立不能なものがどちらも現に存在するのだから、それは遺伝的に決まっているわけはないというのが論理的帰結です。狩猟採集社会とそれ以外の社会の構成員では遺伝的に差があるという仮説も考えられなくはありませんが、ルーツが狩猟採集民族でも別の社会に同化した人たちは財産を築いているので文化で説明するほうが自然でしょう。

ただ、個人の考え方や行動は一様ではありません。狩猟採集社会の中にも自分のところに何かを(こっそり)取っておこうとする人はでてきます。日本人の中にも財産を築くことに関心がない人はいます。そんな人でも一般的にはどうするのがよいとされているのは知っているでしょう。他人に何かをあげるのも、自分のものにしようとするのも、何かをいま使ってしまうのも、取っておこうとするのも、きっと遺伝的な基盤はあるのだと思います。それをどう伸ばすのか、どう抑えるのかが文化だといっても過言ではないでしょう。

私が調査地で見聞きしたことを紹介しましょう。狩猟でイノシシが獲れると、ハンターは自分の家ではないよその家に獲物を置いていきます。肉を捌くのが上手な人に分配は任せるのです。任された人は、獲物を解体して、肉の塊をどんどん切り出していきます。ハンターの家族や狩猟道具を提供した家族には頭や足、内臓など特別な部分が与えられますが、他の家族分にはどれも同じような大きさの肉の塊が用意されます。獲物があったことを知ると、分前をもらうためにお皿をもった子どもたちが集まってきます。獲物の周りにお皿を並べておくと、最後にどのお皿にも平等に肉が入れられていきます。そして、子どもたちはその肉を自分のうちに持ち帰ります。肉をもらいにいく(=分配の現場を体験する)のは子どもの役目なんですね。

また、少なくとも私との会話において、繰り返し、繰り返し語られたのは自分たちは分けるんだということです。分けて、分けて、無くなるまで分ける——それが彼らのアイデンティティになっていました。農耕民も分けるけれど、せいぜい数家族と分けるだけでなくなるまでじゃない。でも、自分たちは無くなるまで分ける。人々はいつも誇らしげにそう語っていました。

ところで、強い権力を持つ人がいないというのも狩猟採集民の特徴です。インドネシアの行政組織に組み込まれているので調査地にも村長はいましたが、みんなを統率できている感はありませんでした。農耕民の村では村長に話を通せばまずまずスムーズに事が進みますが、調査村では一家族一家族と話すしかありません。森にいた頃にもリーダーはいたのかと聞くと、「いた」というので、どんな人がリーダーになるのかと聞くと、「分けられる人」という答えが返ってきました。彼らがどれだけそれを大切な資質だと考えているかがわかると思います。

みんながみんな、いつも正直に気前よく分けるというわけでは実はありません。ときどき誰々が何々を分けなかったといったトラブルは起きます。でも、結局分けるべきだという理屈が勝って、分けたり、分けられないものは共有財産化したりで落ち着きます。

壁を越えるのは難しい

徹底した分配は子どもの頃からの経験と言葉によって維持されている文化です。財産の蓄積について研究したことはありませんが、自分の社会のことを考えると同じことがいえそうです。将来に備えて準備する訓練を子どもの頃からずっと続けてきたように思います。

大人になってからでは、別の側の文化を理解はできても、なかなか実践はできません。私は研究という目的があったので、最初は面食らった文化をどう理解すればいいのかと観察と考察を続けましたが、理解したいというモチベーションがなければ理解すらできないかもしれません。小学校の先生の奥さんは農耕民でしたが、なんでも分けてくれと言いにくる人たちに怒っていました。私にも「分けない方がいい、分けるとみんながもらいにきて無くなる」と助言してくれていました。生活水準の低さもあって先生は異動を希望していましたが代わりの先生が見つからず、でも結局、辞令も出ないのに別の村へ移っていってしまいました。

分配の文化と蓄積の文化、それぞれどんなふうに出現して、発展してきたのか知りたいなと思っています。考古学の勉強をしてみたいなと思っていたところで研究者をやめてしまい、日々の生活の忙しさにまぎれてずっと勉強できないままになっています。今回の話は私の研究者時代の後半に出てきた第二のテーマに関係するものなのですが、次回は本命のテーマに関係したお話を書こうかなと思っています。