コンピューティング史見聞録(23)
『インターネットの思想史』(喜多千草著)が描くリックライダー

パーソナル・コンピューターのはしり?
詳しくは、下の「個人が使えるコンピューターという発想」を参照

■「人間とコンピューターの共生」の背景

前回述べたように、J. C. R. リックライダーは、劇場向けの音響設計をするBBNという会社に誘われた。そこで創業者たちを説得し、会社としてコンピューターを使った事業を展開させることとなった。彼は大学人としてのキャリア構築はできなくなったものの、心理学、特に当時生まれつつあった工学と心理学にまたがる新しい分野の学術コミュニティーで引き続き積極的な活動を続けていた。そして、1960年に創刊された『電子工学でのヒューマン・ファクター』という新しい学会誌の巻頭に掲載されたリックライダーの論文「人間とコンピューターの共生」も、この研究分野がこれからどちらに進めば良いのか、という意見を内部から打ち出す、という目的を持ったものだった。

この論文で打ち出された未来像がどのように育まれたのかを学術的に調査しまとめたものとして、喜多千草氏による『インターネットの思想史』という本がある。喜多氏はマサチューセッツ工科大学に保存されていた資料を発掘したり、当事者にインタビューをしたりする、という作業を地道に行った。

『インターネットの思想史』が挙げている興味深い点のひとつとして、「人間とコンピューターの共生」という題名に込められた思惑について述べた部分がある。

■人工知能研究 vs. 人間が介入する意思決定

人々はヒーローの物語が好きであり、「一人の天才が天啓を得て偉大な発明をした」というストーリーを求めたがる。リックライダーもまた、彼がインターネットの発明に果たした影響が大きかったこと、そして未来像を打ち出したこの論文が有名であることから、リックライダーが「コンピューターとの共生」という概念そのものを生み出したと解釈をする向きもある。しかし、実際にはこのような論文は、書かれた時点での時代背景を色濃く反映することを避けられない。米国での研究資金は政府、とくに防衛の予算が重要であり、この時点でのコンピューター研究は、軍隊活動での情報伝達、そして指揮・統制(Command and Control)の手法を刷新する技術として重視されていた。

1950年代の終わり頃は、第11回で紹介したように人工知能研究にも勢いがあり、指揮・統制を「人工知能を使って全自動化する」研究に予算が大量投入される、という展開にもなる可能性があった。リックライダーは、人工知能は近いうちにそこまで発展することはないだろうと考えていた。代わりに研究として注力すべき分野は、人間がフィードバック・ループの一部として参加する、あるいは人間の意思決定を対話的に使えるコンピューターが補助するようなシステムであるべきだと考えていたわけだ。

喜多氏が書くように、「共生」という言葉を使ったのも、「将来の夢を語った」だけではなく「指揮・統制の全自動化を目指す流れに釘を刺して」予算の動向に影響を与えようという意志が働いていたから、という点は重要である。

■個人が使えるコンピューターという発想

また、個人で使用するコンピューターというビジョンは、商業的な製品であるPDP-1以外にもいろいろと進展していた。リンカーン研究所では「個人で使えるコンピューター」の設計・開発がされており、例えばウェス・クラークWes Clark)の設計によるLINCは、アラン・ケイによれば最初の「パーソナル・コンピューターと言えるのではないか」という機械であった。この写真でコンピューターがウェス・クラークの腰あたりの高さまでしかないように作られているのも意識的なものであり、見た目としても人を威圧しないような機械を作りたい、という発想があったわけである。

LINC

これらの点も含め、アイディアの歴史というのはしばしば複雑なものである。あるアイディアに一番最初に到達しなくても、それをより具体化したり、人々を巻き込んで実現したりする人々も同じくらい重要である。リックライダーはコミュニティーの中心的な位置で情熱的な貢献をしたことは間違いない。

この連載でも多くのエピソードを借りているミッチェル・ウォルドロップによる『The Dream Machine』にも謝辞に喜多氏の名前が上がっている。『The Dream Machine』はしっかりとした本で、人物の群像劇だけではなく、技術的な側面を丁寧に描いていることでも有名な本なのだが、そのような良書の謝辞に研究成果が言及されることの意義はもっと広く認められるべきものではないかとも思う。

次回はARPA IPTOというアメリカ政府の研究援助組織が果たした役割について述べていく。

次回掲載予定は2025年2月上旬頃

著者:大島芳樹
東京工業大学情報科学科卒、同大学数理・計算科学専攻博士。Walt Disney Imagineering R&D、Twin Sun社、Viewpoints Research Instituteなどを経て、現在はCroquet Corporationで活躍中。アラン・ケイ博士と20年以上に渡ってともに研究・開発を行い、教育システムをはじめとして対話的なアプリケーションを生み出してきた。2021年9月に株式会社京都テキストラボのアドバイザーに就任。2022年8月より静岡大学客員教授。